
梁川紅蘭(ヤナガワ コウラン)。1,804〜1879。幼名きみ、名を景婉、他に芸香といい、字を玉書または月華とし、紅鸞と号していたが、後に字を道華、号を紅蘭と改める。文化元年、美濃国安八郡曾根村に生まれる。幼少の頃より詩文を習い、琴もよくした。文政三年、紅蘭十七歳のときに頼山陽とならぶ江戸後期の大詩人である梁川星巌と夫婦の契りを交わす。このとき紅蘭は、本姓である稲津氏を改め、張氏と称する。そのため本来であれば「張紅蘭」とすべきであるが、近代以降は梁川姓の方が広く使われているので、ここでも梁川姓の方を用いた。
文政五年、夫婦はともに遠く西の九州へ向けて旅立つ。文政九年、一時帰郷した後、翌年には京都に赴き、ここで頼山陽と親しく往来する。天保三年、今度は江戸に向かい、最初、南八丁堀に寓居を定めるが、火事で焼失す。その後、墨田川畔を転々とし、最後は、神田柳原のお玉が池のほとりに落着く。この居所は玉池吟築と名付けられ、ここに詩社「玉池吟社」が設けられた。ここでは多くの子弟が集まり、その中には小野湖山、大沼枕山、森春涛、江馬天江などの幕末から明治にかけて詩壇を担うことになる多くの人を輩出した。弘化二年、江戸での活動に終止符を打ち、一時帰郷の後、再び京都に入る。京都でも江戸在住のときと同様、鴨川のほとりを転々とすることになる。また、この頃の星巌は僧月性、佐久間象山、吉田松陰らと盛んに往来し、尊皇攘夷の思想を強めていく。安政五年、夫星巌がコレラにより息を引き取る。それからまもなく安政の大獄が始まり、紅蘭も投獄される。安政六年、獄中生活に堪え、出獄する。晩年は、京都で私塾を開き子女の教育に尽くした。明治十二年三月二十九日病没。享年七十六。